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地毛証明書ー多様性を理解した前提のもとに運用を

昨日のコラムの書いた翌日、11月6日、朝日新聞が大阪での黒髪強要によって精神的苦痛を受けた事件を社説で取り上げた。このような人権侵害はいつになったらなくなるのか。多様性を前提とした学校それ自体が強みになることへの理解を深めたい。
みな同じでないといけないという同調圧力に心情を傷つけられるこどももいる。例えば、肌の色や目の色は変えられないではないか。昨日、論じたばかりだ。朝日新聞は、大阪の府立高校で起きた黒髪の強要問題で「黒髪指導、生徒の尊厳を損なう愚」と愚かというワーディングを用いて厳しく非難した。全く同感である。たしかに、女生徒の言い分が真実であるかは分からないが虚偽の事実を述べる動機もあるまい。もし事実とするならば長年に及ぶこどもに対する人権侵害行為が、現在もなお学校現場において続いていること、人間の尊厳を踏みにじる行為をいつまで続けるのか、厳しく大阪府教育委員会に問わなくてはならない。
昨日、私は、ある種のいじめを受けている子に対して、ひとりひとりの人間がユニークな存在であり、ひとつひとつが違った美しさを持つと論じた。しかし、人間とは、愚かな生き物である。訴えによると、教諭らは「黒くしないなら登校する必要はない」と発言し、授業への出席や修学旅行の参加を禁じた。生徒は度重なる黒染めで頭皮がかぶれて髪がぼろぼろになったという。多様性は集団心理を不安にさせる。さまざまな違いこそ喜びや驚きの発想の原点であるということを未だ理解せず、生まれつき茶髪のこどもに黒髪に染めるように言い渡すことは、「指導」とはいわない。まさに、教師たちは、たった一人の少女が茶髪であることを避けて、無理矢理黒髪にして、ねじまげてしまおうとする。同じだと安心とする集団ヒステリックともいうべき心理は、ゆきすぎればナチズムを思い起こす。
府は裁判で争う構えだが、愚の骨頂である。一方で行政トップの松井一郎知事は「生まれつきの身体的特徴をなぜ変える必要があるのか。大いに疑問だ」と述べている。極めて当たり前のことである。思うのは、教師の劣化、ものをいえない雰囲気、同調圧力の強まりから多様性が損なわれていることに危惧観を覚える。テレビ報道をとってもリベラルな物言うキャスターはアメリカからも日本からも姿を消した。現在、選挙権を得た高校生が久米宏のニュースステーションや筑紫哲也NEWS23を見たら、とても驚くのではないか。
教育の真の機能は、その子に自分のユニークさを発見させ、それを発達させ、そしていかして他者と分かち合うことだ。ところが、現実は、アジア人が欧州で差別を受けるのと同じく、日本でも同じ差別としての押さえつけが存在する。教師の仕事なるものは、「現実」と称して出自に由来するものを否定することが仕事になっている。朝日新聞の社説がいうとおり「愚かしい」のではない。「忌まわしい」出来事である。
今春の朝日新聞の調べで、東京都立高校の約6割で、髪が茶色がかっていたり縮れていたりする生徒に対し、生まれつきであることを示す「地毛証明書」を、入学時に提出させていることが明らかになった。しかしながら、もともと、身体的特徴でいじめられてきた人は、その「地毛証明書」なるもので公的にもパンチを受けることがある。特に、天然パーマなどは、いじめのターゲットにもなるし、天然の茶髪も同じである。
このような人間の尊厳に反する不正義が、NEWS23の報道によると、かえって過去よりも増加傾向にあるのだという。
かくいう私も、地毛証明書を高校生のころ、初めて提出されてびっくりした。いじめや偏見を助長しかねないものがあり生徒の心情を傷つけるものが公的な制度として存在することにあきれて驚いたのである。例えば立命館大学の建学の精神は「自由と清新」、教学の理念は「平和と民主主義」である。かえって、旭丘高等学校といい、評判の良い学校ほどリベラルなものだ。右でも左でもない。下からの民主主義を求める「声なき声」はこうしたものだと思う。
最近、若い人が革新(イノベート)を求めているかというとそうでもない、という。イノベートを好まない体質になっているわけだ。これではベンチャー企業も育たない。
大切なのは、変化の動機付けがあるかどうかであり、学ぶべき人間が、かけがえのない人生を生き抜くために必要な権利を学校が阻害することがあってはならない。そういう意味で、学校には変化の動機付けをもってもらいたい。
自由の気概や反骨精神が強い大阪の知事が、学校側が争う姿勢を示していることに疑問を呈していることは評価できる。指導者は、本来怠らずに耳を澄まし、変化を恐れず、謙虚にして奢らない姿勢が必要だ。これは、当時のJALの稲盛和夫氏が裁判で、そこまでの人員整理は不要であった、とはっきり述べる信念とよく似ている。朝日新聞の「さまざまなルーツを持つ子どもが増えているいま、その必要性はますます大きくなっている。」の指摘は正鵠を射るものといえよう。
最近、教師の劣化が気になる。社会に溶け込まず、しかもバイトが講師をしている。愛知県でもわいせつ事件が多発している。朝日新聞の括りでは、「個人よりも全体、個性よりも統制を重んじる空気は、日本社会に根強くある。「同調圧力」という言葉も頻繁に耳にする。程度の差はあれ、教育現場で起きていることは、大人たちの姿の投影といえる。問題の府立高校に憤るだけでなく、自分の足元を問い直していきたい。」とされている。教育の現場が変化を恐れていては何も変わらない。成長すること、学ぶこと、経験すること、すべてが変化だからである。
松井知事の対応は、真摯であった。大阪府立高校は新聞から「愚か」と酷評されていると肝に銘じてもらいたい。そして、明らかな不正義が行われているとき、声をあげること、これもまた勇気だ。今回の裁判に勝てば良いというのではなく、本質的にはそうではない。少女が学校から不当な取り扱いを受けて、かつ、学習権を侵害された点に本質がある。府立高校は裁判を通じて生徒の尊厳を損なう愚を繰り返すのではなく、傷ついた権利を修復過程に置くこと、裁判所も修復的な司法に徹するべきであろう。そして忘れるべきではない。今夜、宇宙の片隅で泣いている少女の存在を。
日本にはこういう俳句がある。「我が庵焼け落ちてなお月冴ゆる」。
月はもちろんのこと、学校もそろそろ新たなものとして見直し、学校も個性も輝く月の下、相互理解を深めたい。
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