家族法Q&A

憲法

精神活動の自由―思想良心の自由

第7章 精神活動の自由(1)

Ⅰ思想・良心の自由

1保障の意味

① 思想良心の自由とは,

思想良心の自由とは,心の中でいかなる思想・良心をもとうが内心にとどまる限り法的にとがめられることはない,という自由のこと

② 思想良心の自由の妥当領域の狭さ

思想良心が内心にとどまる限り,外的に識別することができないから一般論として法的問題にはなりえない

③ 思想良心の侵害が問題となるとき

思想良心が侵害されたとして問題となるのは,通常,特定思想に基づく外的行為(表現)を強制又は禁止された場合である

④ 特定思想に基づく外的行為の強制へのアプローチ

外的行為の強制が思想良心の自由の侵害となるかは,ⅰその外的行為が他者にどのような影響を与えるのか,ⅱ外的行為の強制が内心にどのようなインパクトを与えるのか―により相対的に決定せざるを得ない

補足

思想良心の自由は絶対的保障である,とよく指摘されている。しかし,思想良心の自由の侵害が問題となるのは,外的行為の禁止又は強制が行われた場合が中心となる。したがって,外的行為の強制などが思想良心の侵害となるかは,上記ⅰⅱの要素を参考に決定せざるを得ず,その意味で絶対性という要素が失われている,というのである

 

*君が代ピアノ伴奏拒否事件

1 一般論(思想良心の自由に対する制約とはいえないとする部分)

学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏を拒否することは,一般的には,思想良心の自由と不可分に結び付くとはいえない。そうすると,ピアノ伴奏命令が,直ちにXの有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するとはいえない。他方,客観的には,入学式で「君が代」のピアノ伴奏をする行為自体は,音楽専科の教諭等にとって通常想定されている。以上に照らすと,上記ピアノ伴奏を行う教諭の行為が,特定の思想を有すると外部に表明する行為といえない。

2 適用違憲を意識して,核心的な思想良心を否定するかの検討したとみられる部分
また,本件職務命令は,公立小学校における儀式的行事において広く行われており,Xに対して,特定の思想を持つことを強制し禁止するものではない。また,特定の思想の有無について告白することを強要するものでもない。さらに,児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものともいえない

3 特別権力関係理論を意識したとみられる部分
さらに,憲法15条2項は,公務員は,全体の奉仕者とする。このような公務員の地位の特殊性及び職務の公共性にかんがみ,地方公務員法30条(職務専念義務)や32条(命令遵守義務)が規定されている。Xは本件職務命令を受けたものである。学校教育法18条2号は,学校教育法20条,学校教育法施行規則25条に基づいて定められた小学校学習指導要領第4章第2D(1)・同章第3の3の規定がある。
入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは,これらの規定の趣旨にかなうものであり,A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても,本件職務命令は,その目的及び内容において不合理であるということはできない。

4 結論
以上の諸点にかんがみると,本件職務命令は,Xの思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3「侵してはならない」の意味

思想良心の自由は,通常,思想を理由とする不利益処分(ex.思想犯)が許されない,というのが本来の意味となる。しかし,軍国主義の時代ならともかく今日,このような野蛮な措置が取られることはない。したがって,解明しなくてはならないのは,外的行為の強制とそれによる内心の操作(思想コントロール)が思想良心の自由を侵害しないか,ということになる。

(1) 内心に反する行為の強制

① 軍国主義の思想を持つよう指導するため,君が代を歌わせること

国家が小学校の生徒に特定の思想を持つ目的・動機で,一定の外的行為を強制することは思想良心の自由に反する[1]

② 国家が公務員である教師に業務として君が代を歌わせる場合

国家が国民に一般的には,正当とされる法律により義務付けられた行為が特定の思想・良心の持ち主には受け容れがたい場合

強制される外的行為が思想・良心に及ぼす影響の程度を個別事例ごとに具体的に判断して,その重大さが一定程度を超える場合には,適用違憲!!

補足

高橋説は,君が代斉唱問題について,「式典での斉唱・掲揚を強制することは,思想・良心の自由を侵害すると思われる」とされる(高橋147)。これは,思想・良心の内容を「公的儀式の場で公的機関が参加者の意に反しても一律行動を強制する,全体主義的行動に対する否定的評価」ととらえているため,ⅰ授業で君が代を指導させることは違憲ではないが,ⅱ斉唱強制は違憲,という枠組みとなっていると思われる(最判平成19年2月27日裁判官藤田宙靖反対意見参照)。

 

最判平成19年2月27日藤田宙靖裁判官の反対意見

1 真の問題は,入学式でのピアノ伴奏は,自らの信条に照らしXにとって極めて苦痛なことであるのに,これを強制することが許されるかという点にある。とすると,本件で問題とされる「思想及び良心」は,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価」といえる。この側面が本件では重要と考える。例えば,「君が代」を国歌として位置付けることは異論が無いが,「君が代」の評価が論争的主題であるから,公的儀式において斉唱を強制することは強く反対する,という考え方も有り得る。

この考え方は,「君が代の歴史観ないし世界観」とは理論的には区別された一つの信念・信条といえる。そうすると,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することは,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となるのは,明白である。このような信念・信条は,例えば「およそ法秩序に従った行動をすべきではない」というような,国民一般に到底受入れられないものとは異なり,自由主義・個人主義の見地から,それなりに尊重・評価し得る。

2 公務員が「全体の奉仕者」であることから公務員は如何なる制限をも甘受すべきという一般論により,具体的なケースにおける権利制限の可否は決められない。

ピアノ伴奏を命じる校長の職務命令によって達せられようとしている公共の利益の具体的な内容は何かを問い,そのような利益とXの「思想及び良心」の保護の必要との間で,慎重な考量がされる必要がある。
学校行政の究極的目的は,「子供の教育を受ける利益の達成」にあるが,この目的が重要であっても,直ちに音楽教師にピアノ伴奏を受忍させることは正当化されない。

本件の場合,究極の目的の達成のために,入学式における君が代斉唱の指導という中間目的が設定されている。そうすると,仮に中間目的が重要であるとしても,それを達成するためには複数の手段があるから,直ちに特定の公務員に対して,「ピアノ伴奏を強制すること」の不可欠性を導くものではない。入学式におけるピアノ伴奏は,他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かにはなお疑問が残る(付随的な業務であるから,テープによる代替が可能であったといえる)。

 

 

 

 

 

 

 

 

(2) 内心の告白強制

① 国家が個人の思想良心の表出を強制すること

ex. 「あなたは共産主義者ですか?社民主義者?」

個人の思想良心の表出を迫ることは,一定の外的行為(表現)の強制といえる。このような外的行為の強制は,通常当然には思想良心の自由の侵害とはされない。しかし,告白強制は違憲ということに争いはない。とするならば,告白強制のメカニズムの解明は,「外的行為の強制違憲論」に有益な示唆を与えるものと考えられる。

告白強制が違憲であるのは,告白強制は特定の思想・良心に不利益が及ぶという状況で行われるのが通常である(ex.「あなた,共産党員じゃありませんよねぇ?」⇒共産党員への不利益が念頭にある)からである。

そうであれば,外的行為の強制が違憲となるかは,特定の思想良心を狙い撃ちにする不利益がある,という状況下にあるかがメルクマールになる,と考えられる。

補足

このような観点で君が代訴訟を分析してみるに,教師に君が代を歌わせるということが特定の思想良心を狙い撃ちするという意図がある,とは直ちにいえないと考えられる。特定の思想を持っており人に対して心理的な圧迫を加えるが特定の思想良心のみ狙い撃ちするものではない,という理解が最判平成19年にはあるのか,と予測される

(3) 内心の操作(思想コントロール)

① 小学校で「天皇万歳,安倍政権万歳,『月月火水木金金』」教育・・・

小学生を特定の思想にしか接し得ないような環境に置くことは,思想良心の侵害となる

小学校は,『囚われの聴衆』(キャプティブ・オーディエンス)的性格を帯びるといってよいので,常に「洗脳」の危険がある

学校長は,校務を掌理する者として生徒が洗脳される危険を回避すべき立場にあるといえよう。具体的に危険を回避するのは,『対抗言論』(カウンター・スピーチ)に接する機会を作るという配慮が必要なのである

補足

思想良心の中での記述だが,現実には『教育の自由』や『表現の自由』を考えるうえでの有益な視点として理解しておく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ⅱ信教の自由

2信教の自由

(1) 信仰の自由

① 正当な法律を適用するとXの信教の自由が侵害される場合の処理

このような場合には,法律上の義務を免除するかが問題となる。例えば,平成19年新司法試験の問題との関係では,Xに周辺住民の過半数の同意を取ることを免除することが問題となるわけである。

 

Xの信教の自由を保障する       免除は信仰を理由とする優遇

ために義務免除の憲法的要請       政教分離原則に反しないか

 

Xに対して「周辺住民過半数の同意免除」の要求レベルで異なる

免除が憲法的『要請』 免除が憲法的『許容』
政教分離原則に優先する 政教分離原則には優先しないので,その反しない限度に限定される

*『要請』か『許容』は個別事案に応じて決めるしかない

*エホバの証人剣道拒否事件は,このコンテクストでとらえられる事案。現実には行政法マターの事案として処理されているが,憲法論に引き直せば,国家が学生に教育カリキュラムとして剣道を受講させるのは,心身の健全な発達という観点から正当な行為といえよう。しかし,絶対的平和主義という教義をもち,ゆえに武道を習ってはならないというエホバの証人の信者だけには,受講の強制は信教の自由の侵害という効果を生じさせる。ゆえに,エホバの証人の信者のみは剣道の受講を免除させるべきである,ということになる。問題は,それが憲法的要請か憲法的許容か,という点にシフトする。この点,もし憲法上許容というにとどまるのであれば,政教分離原則に反しないことが要請される。しかし,最高裁の立場は,政教分離は問題とならない,つまり,免除が憲法的要請と解したのではないか,というコンテクストで理解することができるのである(もちろん,最高裁が意図しているわけではないが)

 

補足

思想良心の自由と同様に信仰の自由もそれ自体がストレートに侵される,という野蛮な事態は今日ではあり得ない。そこで,そこから派生してくる問題が『信仰の自由』の中心的テーマになる,と理解しておけばよい。

思想良心では,それが外部的行為の強制,という形で現われることが多いのに対して,信仰の自由では他の正当な目的で制定された法律が結果的に特定の宗教を信仰する者に不利益となるという形で問題となるわけである。これは,平成19年新司法試験でも問われたものである。すなわち,『街づくり条例』には,環境保全の目的のために住民の過半数の同意がなければビルを建てられないという規制が行われていた。ところが,ある宗教団体が施設を建設しようとしたら,施設建設に反対する住民の同意が得られないというケースであった。このような規制自体が合憲と仮定して議論を進めると,問題は今日の『住民エゴ』からくる迷惑施設受入れ拒否傾向のための不同意のために当該宗教団体が施設を建設できず,ゆえに信仰の自由が侵害される場合をどう解決するか,という点にあると解される

 

(2) 宗教的行為の自由

① 宗教的行為の自由に対する審査基準

宗教的行為の自由に対する制約は,多くは直接規制よりも付随的規制がほとんど!という問題点は理解しておくこと

宗教的行為の自由に対する直接的な制限 宗教的行為の自由に対する付随的な制限
厳格な審査基準 法令違憲のアプローチは困難であるので『適用違憲』のアプローチを採用せざるを得ない

② 適用違憲のアプローチ

上述の司法試験のケースのように周辺住民の過半数同意を要求するという場合,その規定をXに適用すると違憲,という処理をすることは許されるのか。この点,どのような場合に具体的に適用違憲アプローチが認められるかが問題となるが,刑法犯に関しては認められず,財産関連の領域において慎重に適用の可否を検討していくことになる

 

 

 

 

 

 

 

3 政教分離

(2) 政教分離の理念

(ア) 政教分離の目的

① 宗教の非政治争点化

② 宗教的課税からの自由

もし国教を定めれば,税金で国教をサポートすることになり,神道以外の者が神道のために税金を支払わせることになる。アメリカの政教分離の根拠はここにある

③ 宗教の自由に対する間接的な圧迫を除去して,より完成された宗教の自由を実現するという目的

特定の宗教が政治と結びつくと他の宗教を信じる人は心理的な圧迫を受けがちとなり,宗教の自由が危険にさらされる

(イ) 宗教的中立性

宗教的中立性という目的を達成するためには,2つの手段がある

① 国家が宗教にまったく介入しないという手段

② 国家は宗教に介入することはあり得るが,すべての宗教・非宗教を公平・対等・平等に扱うという考え方(津地鎮祭事件最高裁判決)

* 不介入よりも公平性の考え方が重視されるように

∵ 現代国家においては,国家がさまざまな領域で社会に介入することが多くなり,その結果,直接的・間接的に宗教とも関係をもたざるを得なくなった

 

 

(3) 政教分離の法的性格

視点 ① 政教分離規定をどの程度厳格に解釈するべきか

制度保障説 制度保障説は,信教の自由をよりよく保障するための手段にすぎず,信教の自由が保障されている限り政教分離の方は柔軟に扱っても構わないとする

学説の多く 制度保障説に立ちつつも,判例とは異なり信教の自由をより完全に保障するための不可欠の手段であるからこそ,厳格な分離を貫くべき

人権説   人権説は,信教の自由と政教分離は両者相まって信教の自由という人権を保障したものであるから,厳格な解釈必要

 

視点 ② 政教分離規定違反があった場合,誰が訴訟を提起することができるか

制度保障説 制度保障の違反があっても,それにより通常は特定個人の権利利益が侵害されたとはいえず,法律により特に訴訟提起が認められていない限り,訴訟で争うことはできない

人権説   分離規定の違反は人権侵害であるから,侵害を受けた者は当然その救済を求めて出訴できる

× 人権説の言うように,間接的な信教の自由に対する圧迫からの自由を人権ととらえるとしても,その範囲は特定しがたく,国が支援した宗教以外のすべてとなりかねない⇒結局,人権説からも,間接的圧迫を受けたといえるだけの特別の立場・状況にあったことの論証を求めることになるが,そのような場合はそもそも主観的利益の侵害があるといえるから,制度保障説からも出訴が認められることになってしまうため,実質的に両説の違いはないという評価が可能(滝井裁判官の補足意見参照)

 

最判平成18年6月23日(小泉靖国参拝事件)滝井繁男裁判官の補足意見

 政教分離原則の規定は,直接に国民の権利の保障を規定したものではない。これに反する行為があっても,直ちに国民の権利が侵害されたとはいえない。国の行為によってXらが受けたという心理的圧迫は,不特定多数の国民に及ぶという性質のものにとどまる。

もっとも,私は例えば緊密な生活を共に過ごした人への敬慕の念からその人の意思を尊重したりその人の霊をどのように祀ったりするかについて各人の抱く感情は,法的に保護される利益と考える。したがって,何人も公権力が自己の信じる宗教によって静謐な環境の下で特別の関係のある故人の霊を追悼することを妨げたり,その意に反して別の宗旨で故人を追悼することを拒否したりすることができると解する。もし,それが行われれば,強制を伴わなくても法的保護を求め得ると考える。
このような宗教的感情は,平均人の感受性によって認容を迫られるものではなく,国の行為によってそれが侵害されたときは,その被害について損害賠償を請求し得ると考える。

 

 

 

(4) 政教分離の具体的内容

解釈指針 ① 20条1項後段,3項及び89条の具体的内容を明らかにする

② 国家の宗教的中立性の理念とその手段

(ア) 特権・政治上の権力の禁止

(イ) 国の宗教的活動の禁止

a 宗教的活動の判断基準

(ⅰ) 目的・効果基準

「宗教的活動」とは,その目的が宗教的なものであり,その効果が宗教を促進あるいは抑圧するようなものをいう

× 「宗教的活動」の内容がこれだけでは曖昧で,適用の仕方によってはいずれの結論も出しうることになってしまう(しかしながら,判例として確立されているので,学説はその適用の仕方を精緻化するというアプローチを採りつつある)

(ⅱ) エンドースメント・テスト

エンドースメント・テストは,国の行為が特定の宗教を後押しするというメッセージを発するような目的・効果をもつ場合は,許されないとする基準をいう

長所 国の行為のメッセージ効果を重視することから,国と宗教の象徴的結合を含意する場合を禁止するという意味を持つ

∵ エンドースメント・テストは最高裁が採用を拒否したレモン・テストの読み直しとして主張されたものであるという点に注意すべき

 

 

大阪高判平成17年9月30日(小泉靖国参拝違憲事件)

本件各参拝は,国又はその機関が靖國神社を特別視し,あるいは他の宗教団体に比べて優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ,靖國神社という特定の宗教への強い社会的関心を呼び起こしたことは容易に推認される。これに加え,本件第1参拝の行われた平成13年8月には,靖國神社に例年より多くの参拝者があり,そのインターネットホームページへのアクセス数が急増したことによっても,本件各参拝が被控訴人靖國神社の宗教を助長,促進する役割を果たしたことが窺える。

以上のとおり,本件各参拝は,極めて宗教的意義の深い行為であり,一般人がこれを社会的儀礼にすぎないと評価しているとは考え難いし,小泉においても,これが宗教的意義を有するものと認識していた。また,被控訴人国が宗教団体である被控訴人靖國神社との間にのみ意識的に特別の関わり合いをもったものというべきであって,これが,一般人に対して,被控訴人国が宗教団体である被控訴人靖國神社を特別に支援しており,他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を与え,特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ず,その効果が特定の宗教に対する助長,促進になると認められ,これによってもたらされる被控訴人国と被控訴人靖國神社との関わり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える。
したがって,本件各参拝は,憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たる。

 

b 宗教的活動の2類型(高橋説による精緻化)

(a) 直接的宗教活動

津地鎮祭事件など[2]

ⅰ 目的の宗教的意義(世俗目的の否定)の認定[目的審査]

国の行為の客観的性質が宗教的性質を持っている場合は,原則としてその目的は宗教的意義を有すると評価すべき。世俗目的といえるためには,その目的を達成するために,非宗教的方法による代替的手段がない必要

∵ 非宗教的方法による代替手段がある場合は,世俗目的というのは「見せ掛け」にすぎない

前掲小泉靖国参拝違憲事件

本件各参拝は,このような宗教団体である被控訴人靖國神社の備える礼拝施設である靖國神社において,しかも,その祭神のご神体を奉安した本殿において,祭神に対し,一礼する方式で拝礼することにより,畏敬崇拝の気持ちを表したという行為である。これは,本件各参拝は,客観的に見て極めて宗教的意義の深い行為というべきである。また,本件各参拝は,小泉の私的な行事であるとか,また習俗・習慣として宗教的意識が希薄ともいえない。
もっとも,小泉の談話によると,小泉は,本件各参拝について政治的な目的(自民党総裁選の公約の実現という側面)が主たる目的と表している。

しかし,参拝に政治的な目的があったとはいっても,本件各参拝の核心部分は,靖國神社の本殿において,祭神と直に向き合って拝礼するという極めて宗教的意義の深い行為である。他方,戦没者の追悼自体は,小泉自身,8月15日には全国戦没者追悼式に出席して式辞を述べているように,靖國神社に参拝しなければ実施できないものではない。したがって,小泉において,上記政治的目的の故に,本件各参拝のうち拝礼時等において,祭神への畏敬崇拝の気持ちを有しなかったとか,これを表さなかったとは到底いえないのであって,本件各参拝は,上記(世俗的な)政治的目的にかかわらず,その深い宗教的意義を否定できないというべきである。

ⅱ 効果審査

視点 国家と宗教の象徴的結合のメッセージを伝達することにならないか

 

(b) 宗教支援活動

20条3項は,国が私人の宗教を支援する行為も国の宗教的活動として禁止(解釈)

ⅰ 国による宗教の直接支援

箕面忠魂碑事件(最判平成5年2月16日民集47巻3号1687頁[合憲])

大阪地蔵像事件(最判平成4年11月16日判時1441号57頁[合憲])

愛媛玉串料事件(最大判平成9年4月2日民集51巻4号1673号[違憲])

近江八幡市新穀献納祭事件(大阪高判平成10年12月15日判時1671号19頁[近江八幡市の公金支出は,憲法20条3項に違反するが,支出当時,市長には,故意過失が存せず請求は斥けられた])

白山ひめ神社御鎮座2100年式年大祭奉賛会事件(名古屋高金沢支判平成20年4月7日[市長が上記発会式に出席し市長として祝辞を述べた点が違憲で公金支出は違法])

視点

国による宗教の直接支援は,国自らの宗教的行為と同視してよい

忠魂碑や地蔵像や靖国神社は宗教施設,新穀献納祭は宗教的儀式という客観的性質を有する点に照らすと,原則として,目的の宗教的意義が推認されるから,世俗目的とすることはできない

また,効果基準からも,国と宗教の象徴的結合の問題が生じる

ⅱ 国による宗教の間接支援

私学助成[3]

アメリカの宗教学校に対する教科書に対する費用援助[4]

アメリカの宗教学校に対する教師に対する給与助成[5]

視点

私学助成や教科書の費用援助は,子どもの学習権を擁護するという世俗目的に基づいており,その客観的行為自体に宗教的意義はない。これは,一般的な支援の結果,付随的に宗教も支援を受けることになるというにすぎない。したがって,目的に宗教的意義が認められるとはいえない。

問題となるのは,むしろ,効果基準をクリアするのかという点にあると思われる。たしかに,一見すると,特定の宗教を促進する効果があるが,政教分離の目的である国の宗教的中立には2つの手段があるところ,公平性を重視する見解に依拠する場合には,直ちに特定の宗教を促進するものと評価するのは相当ではない。したがって,かかる問題については,①効果の点で宗教に対する不釣合いな便宜供与とならないか,②宗教との恒常的関係が設定される結果とならないか―という観点から厳格に審査する必要がある。

(ウ) 財政的支援の禁止(憲法89条)

20条3項は,国が私人の宗教を支援する行為も禁止していると解すると,89条前段の存在意義はほとんどなくなり,89条後段に存在意義が求められることになる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(5) 政教分離原則と信教の自由の緊張関係

問題意識 国家が定立した法律が宗教の禁止する行為をするよう要求したり,あるいは,宗教の要求する行為をしないよう禁止したりすることが起こりうる。このような場合,国家が行為を強制することができるかや,逆に宗教の自由を重視して法律上の義務を免除するとすれば,国家がその宗教に特権を与えることになり,政教分離原則に反しないかが問題となり,まさに「あちらを立てると,こちらが立たず」という状況となる

基本的視座[6]

① 信教の自由が義務免除を要請する場合

Ex. エホバの証人剣道拒否事件

② 信教の自由が義務免除を要請しない場合

ⅰ 法律で政策的に義務免除をしても政教分離原則に反しない場合

ⅱ 法律で政策的に義務免除をすると政教分離原則に反する場合

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ⅲ 学問の自由

1 意義

① 学問は,既存の知識・体系・秩序を疑ってかかるという特性をもっており,既存の秩序の権威を動揺させる危険を有するから,権力による弾圧を受けやすい

② 学問を発展させるには,学問の自由を保障するのが最善の方法

③ 学問の中心的な場として,(特に国立)大学に特別の自由を与えること

*23条の意義は,大学自治を認める点にあるといってもよい。これは,個人が学問をすることは,19条と21条でも十分保障されるものであり,23条に意義を与えるとすると,学問の自由は研究の中心である大学でこそ保障されなければならないと考えられるから

2 学問の自由

(1) 研究の自由

特に,生命科学の分野では問題が多いが,当面は国による拙速な介入は避け,研究者団体の自律的対応に委ねるべき

(ア) 研究対象の選択

絶対保障の思想良心の自由とは異なり倫理的な観点から制限あり得る

Ex. 大量殺戮兵器の研究

(イ) 研究方法の自由

他人に害を及ぼすような方法は認められない

Ex. 人体実験や爆発の危険を及ぼすような方法,個人の情報コントロール権との関連(病気に関するデータを本人の同意なしに研究を使う場合など)

(2) 研究成果の公表の自由

表現の自由の保障と大差がない

3 大学の自治

大学の自治とは,(特に国立)大学の構成員(教員が中心)の管理・運営を大学設置者・資金提供者(多くは政府)の干渉を受けずに自主的に行うことをいう

∵ 政府が管理・運営の権限を通じて学問の自由を不当に制約する危険を避けるため

(1) 大学自治の具体的内容

① 教員人事

② 研究内容(対象・方法を含む)の決定

③ 教育内容(カリキュラムの編成などを含む)の決定

④ 学生の管理

⑤ 予算の管理

⑥ 施設の管理

⑦ 構内秩序の維持

警察の監視を常時許す場では学問は成り立たないから,大学側の要請がない限り,原則として,警察が大学構内に立ち入ることは許されないと解すべき(令状+事前通知ありの場合は例外)



[1] 芦部259は,「愛国心教育もその取り扱い方を誤り,『国と郷土を愛する態度』を身に付けたかどうかが成績評価の対象となるとすれば,児童の内心の自由にまで干渉する事態が考えられ,深刻な憲法問題を提起する可能性があるとする。

[2] なお,本文の叙述に照らすと明らかなように,エンドースメント・テスト類似の考え方で宗教的意義の内容を判定しようとすると,津地鎮祭事件の場合は①儀式は客観的に宗教的性質があるし,②工事の無事を祈願するという世俗目的のために宗教儀式を主催する以外に方法がなかったとは言いがたい(むしろ,安全対策を徹底するだけで足りるのではないか)ことに照らすと,合憲と述べた最高裁の結論には疑問が生じる。

[3] 私学助成は,①宗教的私学の宗教を付随的に支援する結果となるが,宗教的私学のみを除外することは差別となり公平性に欠ける。また,②現在程度の助成では,宗教系私学が他の私学と比較して不公平というほどの恩恵を得ているわけでもない。よって,20条3項に反しない。

[4] 宗教系学校に対する教科書の援助については,たとえば,世俗科目について援助するものである限りは私学助成と同様に解すべきである。しかしながら,その学校独自の宗教的科目の教科書について援助する場合は,世俗目的とはいえず宗教の直接支援に近くなるということができる。したがって,宗教的科目についての教科書の援助は宗教的目的が否定しがたいと考えることも可能である。もっとも,効果基準を考えてみると,その学校に占める宗教的科目の割合が全体からみると僅少と評価する場合は,これを肯定しても政府がその宗教を支援するというメッセージを与えるということにはならないように思われるし,また,不釣合いな便宜供与ともいえないと考えられる。この点は,異論があると思われるが私は合憲と解する。

[5] 宗教系学校に対する教師の給与援助については,アメリカ最高裁は違憲と解している。たしかに,世俗的な教科書の支援とは異なり,宗教系学校の教師となればその宗教を信奉した者しか教師にならないのが通常と思われる。そうすると,その教師の教育内容は必然的に宗教的な内容のものが多く含まれる。これが宗教目的における宗教的意義の肯定や効果基準におけるエンドースメント・テストに触れるということになるという理由と考えられる。しかしながら,わが国の場合,私学助成という形で一般的な援助が行われており,そこでは私学の建学の精神にかんがみ自主性が尊重され,その使途は教師の給与に利用することも可能であることも考えると,違憲と判断するには慎重であるべきである。そこで考えてみると,他の一般の学校と同様の教師の給与助成であれば,それが国民にして政府が特定の宗教を促進しているというメッセージを発すると考えるのは相当性を欠く。また,他の学校と同様の規模であれば不釣合いな便宜供与とはいえないし,継続的関係の設定という見地も私学助成と大差ないものと解される。たしかに,考えようによっては,効果基準ではなく行為の客観的性質にかんがえみると宗教意義の目的が認められうるということも考えられる。しかしながら,行為の客観的性質は,「学校に対する教師の給与助成」と解すべきで,「宗教学校に対するその宗教を信奉する教師の給与助成」ととらえて,宗教的意義があるとするのは,その行為の性質を具体的にとらえすぎている憾みがあるといえる。その行為独自には,宗教的性格はないとみる方が妥当と思われる。以上の検討に照らすと,教師に関しても合憲といわざるを得ず,アメリカ最高裁の結論は是認できない。

[6] 高橋説の基本的視座は傾聴に値するものがあるといえるが,ただ,この分類は結果的に生じるものにすぎず,結局上記3つの類型のいずれに分類するべきかという判断それ自体が最も困難というべきで,それに対して何らかの規範を示すものとはいえないものと解される。そこで,検討を試みると,エホバの証人剣道拒否事件に代表されるケースは,基本的には,君が代ピアノ伴奏拒否事件と同様に,その義務を強制する法令が違憲となる余地はない「適用違憲」のケースに限られると解される。そうすると,基本的には,義務を強制することにより得られる利益の重要性とそれにより失われることになる信仰上の利益が特にその核心を侵すものであるかという観点から比較衡量されることにより決せられることになる。したがって,上記①及び②の区別自体が相当に評価的であるのであり,簡単にはそのいずれかに分類することはできないものと解される。そこで,適用違憲という判断がなされれば,①の分類に確定される。これに対して,適用違憲とならない場合であっても,政策的に例えば,学校長が裁量権を行使して,特別措置を採るということが考えられるわけである。そうすると,仮に憲法に違反しないとしても,論理的には行政法上の裁量権の逸脱・濫用があると学校長の処分を攻撃することが考えられる。もっとも,学校長に裁量権が認められるといっても,それは憲法に違反してはならないことは当然であるから,政教分離原則に反するものであってはならないということになると思われる。そこで,今度は学校長が特別措置を採ることが政教分離の原則に反しないかという点が問題にされる。この点については,生徒の信教の自由を擁護するために特別措置を採るということになるわけであるが,なるほど,これを上記の高橋説の視座に依拠すると信教の自由を直接に支援するケースに該当しそうである。そうすると,原則として,宗教目的の肯定がなされる可能性がある。ただし,効果基準に照らすと,少なくとも,便宜の供与が一般人の基準からして過大なものでない限りはエンドースメント・テストに触れることはないと思われる。したがって,ここでは,免除される義務の内容が具体的に市民に対してどれほどの負担や苦痛を課すものであるかを検討し,一般人を基準に負担や苦痛が一般的にはそれほどではないと評価される場合に限り,政教分離原則に反しないということになると思われる。なお,高橋説によったとしても,ことエホバの証人剣道拒否事件の場合,たとえば,「病弱なため,剣道の授業に参加できない」というケースも想定されるのであり,この場合は世俗目的であることは明らかと思われる。このこととの対比では,「宗教上の理由から,検討の授業に参加できない」というケースに対応する学校の措置は,むしろ通常想定される事態であり宗教の直接支援にはあたらず,間接支援にとどまるのではないかという考え方も成り立つと思われる。また,宗教的性質のある行為であっても,剣道授業を免除する以外に子どもの宗教的信仰を保護する方法はないといえるから,宗教的意義という目的の推認は妨げられると説明することも可能と思われる。

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