家族法Q&A

憲法

憲法の思考様式

第1章 憲法の思考様式

第1 長谷部説の考え方

1 ベースラインをどこに設定するか[1]

(1) 基本的な枠組み

長谷部は,最高裁は立法裁量の余地が想定される場合には,以下の枠組みで判断すべき

① 違憲審査の前提となる特定のベースラインが当該制度について存在するか否かを問う

② ベースラインがある場合には,現在の法制度とベースラインとの距離を測る

③ その距離があることについて,合理性・必要性がどの程度あるのかを審査する

(2) あてはめ

ア 森林法違憲事件判決

① 最高裁は,単独所有こそが近代市民社会における原則的所有形態であるとして,単独所有が原則であるという点にベースラインを設定した。

② そして,単独所有への回復を目的とする共有物分割請求権を否定することは,憲法上の財産権に対する制約であると位置付けている。

③ そして,その制限の目的及び態様が公共の福祉に合致するかという観点から審査している。

イ 郵便法違憲事件

① 制度設計のベースラインとしては,事業者側に故意又は重大な過失がある場合には責任制限を認めないとする運送事業者責任制限制度の一般的なあり方が採用

② そして,郵便法の採用する具体的な制度がそのベースラインから乖離していることの合理性が審査されている。

ウ 国籍法違憲事件

① 本件原告が法務大臣に国籍取得届を提出した当時における国籍取得要件のベースラインは,日本国民たる父の非嫡出子については,その父母が婚姻しているか否かに関わらず,届出により日本国籍を取得することにある

② 本件区別は,そのベースラインから,父母の婚姻という非嫡出子本人の意思や努力によっては動かし難い身分行為を国籍取得の要件とする点でベースラインと距離がある

③ その結果は基本的人権の保障に重大な意味を与える国籍を取得できないという深刻な不利益を与えるものであり,当該ベースラインからの距離に合理的関連性は認め難いという結論

 

 

 

第2章 憲法的論証における厳格審査

第1 三段階審査論

1 三段階審査論

① 被制約利益が憲法の保障する基本権によって保護された領域に入るか否か

② 国家の行為が基本権の制約を構成していると言えるか

③ かかる権利侵害は憲法上正当化できるか

第2 三段階審査論の整理

1 違憲の発見の分脈

① 保護範囲

② 権利侵害

2 違憲性阻却自由の論証としての正当化の分脈

③ 正当化論

* 本来は,審査基準の設定に先行して,いかなる権利のどのような側面が,いかなる国家行為によってどのように制約されているのか,されるとしてもどの程度の深度なのか,が当然に問われる

⇒ 審査基準の選択や正当化の論証を必要とするかの見極めにとっても重要!!

* このような思考方式にはあまり違和感がない。というのも発見の分脈は要件事実論における請求原因の基礎付けと位置付けられるし,正当化論は抗弁と位置付けられるからである。

 

 

 

第3 憲法的論証の研究

1 保護範囲論

(1) 視点

問題とされている権利がそもそも憲法的保護を受けるかが問題

(2) 検討の流れ

① 権利主体論

Ⅰ 法人の人権主体性論

Ⅱ 第三者の権利の援用(違憲主張適格)

② 被侵害利益は憲法的保護を受けるのか

(3) 保護範囲の画定について

ア 保護範囲の画定

結局,ある条項に基づく憲法的保障が私人の行為に及んでいるかというのは,その条項の理論的根拠を考察の上,範囲を確定するしかないと思われる。他方,特に,表現の自由の分野において刑事罰を課するというような場合は,あらかじめ定義付け比較考量という手法で,定義をする段階で利益考量をしてしまい,その後の適用はもっぱらそれにあたるか否かのみで判断する,したがって,正当化の論証は不要というものも存在している。

イ 保護強度の測定

保護強度がどれくらいかという問題は,審査基準,したがって,正当化の論証にも影響を与えるものであるということを意識する必要があるということはいうまでもないところである。この点について,保護の強度が強い場合については,どのように考えるかであるが,やはり憲法が保障している条項が想定する典型的なケースとの距離がどれくらい離れているかで決めるしかないと思われる。例えば,表現の自由であれば,典型例は政治的表現の弾圧であろう。これに対して,わいせつ表現ということになれば,政治的表現との間に距離があるといわざるを得ない。したがって,保護強度は弱いという思考をたどることができる。

なお,答案でも悩むのが一つの権利において,複数の憲法条項の保護が及んでいると考えられる場合である。この点,一つの考え方としては,複数の憲法条項のうち,その権利に対して提供される保護の程度が相対的に強いほうが違憲主張の根拠として採用されるというものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 国家行為と権利侵害

(1) 国家行為

問題となる国家行為は,「法律」のみに限られないのは当たり前である。したがって,答案においても,行政処分や有罪判決を言い渡すことにフォーカスをあてて合憲性の論証を試みると言うことがあり得るのは当然と言わなくてはならない。この点に関して,今日では,過去のように法律や行政処分というような典型的な「国家行為」が攻撃の対象とされるのみならず,それ以外の国家行為が攻撃の対象となり得ることも指摘されている。すなわち,典型的にフォーカスをあてるべき国家行為というのは,「国家権力が国民の法益侵害を直接目論む目的的行為」であるが,それだけには限られなくなっている。

今日では,最も問題とされているのは,直接は当該法益の侵害を目的としていないというケースである。さらに,作為のみならず不作為も攻撃の対象とされるようになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2) 権利侵害

ア 審査基準論への影響

次に,権利侵害は,国家行為とそれにより侵害される憲法上の権利が特定されていれば,明確となる。問題は,その権利侵害がどのような類型という点である。これは,保護強度の測定の問題とも関連を有するものであるが,どのような権利侵害の態様であるかということは,おのずと正当化論証における審査基準論にも影響を与えるわけである。

イ 類型論

① 直接規制と間接規制

② 偶然規制(付随的規制)と目的的規制

③ 事前規制と事後規制

④ 消極規制と積極規制

⑤ 法律による規制と法律に基づく規制

⑥ 内容規制と手段規制

⑦ 内容規制(見解規制)と内容中立規制(主題規制・手段規制)

ウ コメント

駒村論文によると,違憲の発見の分脈の中で,上記の権利侵害の類型についても特定するということになる。しかしながら,現実的には,正当化の論証の中で審査基準論を選択する前提の中で,これらの権利侵害の内容ないし類型については触れる方が処理しやすいであろう。

 

 

 

3 正当化論証

(1) 絶対化保障と相対化保障

まず,ある憲法上の保障が絶対的なものである場合は,正当化論証をすることは許されないということになる。したがって,検閲をされない権利というものを観念するとすれば,それは表現の自由との関係で絶対的保障という見解を前提にすれば,もはや正当化論証をすることは許されず,その時点で違憲であるということが確定することになる。

次に,相対化保障の場合である。多くの場合はこちらに当てはめられることになろう。したがって,公共の福祉に基づく制約として正当化することができるかが問われるということになる。なお,この点,特に留意しなければならないのは,近時,芦部説のように,人権の制約の根拠は他者の人権でしかあり得ないという硬直的な思考はすでに克服されている。したがって,いかなる論拠によって正当化することができるのか,その理論的根拠については,研究を重ねておかなければならない。ただし,正当化根拠というのは,今日では,実に多彩であるから,事案に即して色々考えるという姿勢が求められているといえよう。

* 公共の福祉は,それ自体として基本的人権の制約の正当化事由となるわけではなく,正当化事由は,各基本的人権の性質に応じて具体的に引き出される

 

 

 

 

(2) 法律の留保

駒村論文では,まず,はじめに行われるべきなのは,法律の留保の要請を満たしているか,という点であるとする。この点については,行政法学の法律の留保理論をどのように憲法上位置付けるかという問題が生じる。この点,憲法原則には主観法と客観法があるのであって,当然の客観法と位置づけとするかは別として,その理論的根拠については,なお研究を要するところである。もっとも,法律の根拠がないにもかかわらず,人権侵害行為を国家がするということは考えにくいところであるので,あまり有意義な検討順序とはいえないであろう。

(3) 比例原則

次に,権利侵害の実質的正当化に課される条件は,過剰規制禁止法理としての比例原則をクリアするという点にある。比例原則のテストの中では,①立法目的の正当性と利益考量における均衡確保,②目的と手段の合理的関連性の確保,③規制の必要最小限性の確保―が論証される必要があろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 長谷部説の思考方法を考えると,まず,ベースラインをどこに設定するかという点にフォーカスがあたるということになる。しかしながら,この思考方法の問題点は,どこの点にベースラインを設定するかというのは水掛け論になってしまうおそれがあるということであろう。ところで,近時,ドイツの3段階審査論が有力となっているが,これで位置付けるとすれば,そもそも,「父親が日本人である非嫡出子」に「日本国籍の付与を受ける権利」という憲法的保障が及んでいるかという視点から議論していくということになると考えられる。高橋説はこれを肯定しつつ,本件差別を正当化できるかという分脈の中で判断をしてゆくということになっている。結局のところ,長谷部説も①のベースラインの設定は,ある権利に憲法的保護が及んでいるかを判断するプロセスとパラレルに考えられる。そして,②ベースラインと現実との距離を測るという点も,ある国家行為によって憲法上の権利が侵害されているかを特定するプロセスとほぼパラレルであろう。さらに,③その距離が合理的であるかを見るのも,いわゆる正当化の論証とほぼパラレルであるということができるであろう。

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