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朝鮮日報のコラム「定時に帰る裁判官の裁判なんて受けたくない」

朝鮮日報の記事を閲覧していたら、目に留まるコラムがあった。題して「定時に帰る裁判官の裁判なんて受けたくない」である。

たしかに調停を主宰中、五時になったから調停委員や当事者を残して帰宅してしまう主宰裁判官はどうかと思う。米国では決して「your honor」=裁判長と呼ぶに値しないだろう。

ただ、働き方改革と朝日新聞のロストジェネレーションの記事を読んでいてこの記事については考えさせられるものがある。首肯することもできるし切り捨てることもできるかもしれない。

私たちが社会に出たのは2000年代である。まさに就職氷河期で安倍政権では「人生再設計第一世代」などと称されるロストジェネレーション世代、私のネーミングは「貧乏くじ世代」である。

貧乏くじ世代は就職に苦労した分、熱心に働いた。現在の平成生まれの新入社員などとは比較にならず、私は前のローファームに入ったとき午前2時ころに帰宅し、同僚の午前3時のNHKニュースの話題を翌日する、といったくらいであった。

高度成長期の猛烈社員とは異なるが、私たちのころは仕事がなく「社内失業」「リストラ」「リーマンショック」「派遣切り」などという言葉が流行った。ある意味では自分がその対象にならないように、かけがえのないものを犠牲にして走りぬいてきたという気持ちがある。

ただ、尊敬する父と同じ仕事である弁護士、また愛する国のため法の支配に奉仕することができることは私の喜びでもあった。

ロストジェネレーション世代は、「勝ち組」と「負け組」に明確に分かれている。本来であれば、みんなが団結して政党を作っても良いくらいではないかと思うのだが、年収も会社員でも1200万円くらいの人から300万円くらいの人まで様々である。平均は500万円~600万円くらいの気がするが、気になるのは35歳から45歳にかけてよりその下の世代の方が年収が高い、あるいは、変わらないというケースに接することもめずらしくないということである。

このような賃金格差はおそらく永遠に埋められないのだろう。だからこそ我々は生涯、一生懸命働くことを宿命づけられてしまったなどと考えていた時期もあった。しかし、やや身体に疲労がたまるようになってから、考えるようになった。甥っ子とともに自分と向かい合う時間が増えてきたように思う。そうであるし、私は社会保険労務士(令和元年5月27日時点の情報)として、働き方改革を推進する立場であるうえ、欧米の効率良い働き方を目の当たりにして、いったい日本は失われた20年の間に何をしてきたのであろうかと考えてきてしまった。このことは、多かれ少なかれお隣韓国でも似たような状況にあるのではないか、というのが私の推測である。

さて、朝鮮日報のコラムは新聞記者を自画自賛した後、裁判官を批判する内容でありその立論があまり美しくない。

現在、アメリカではメディアは「真実」を伝えなくなりフェイクニュースが跋扈するようになり久しい。「新聞記者が重要な理由は、間違った記事が市民を惑わせ、世の中を混乱に陥れるケースがよくあるからだ。」とするが、わたしたちもメディアリテラシーを身に着けており、特に新聞の主張はエビテンスの提示がないことから、満額通り受け取っている人は少ない。

その意味では、ソンウ記者は自己評価が「未熟な記者」といえるであろう。

さて、ソンウ記者は、「裁判官や検事も共通している。」と指摘するが、米国の起訴用件では、①不法行為があること、②損害があること、③証人がいることが起訴3要件といわれるように、証拠の裏付けが求められる点がメディアとは異なるだろう。

しかしながら、以下の点は日本の裁判所にもそのままあてはまる。

「間違った判断が人の名誉を傷つけ、生命を奪ってしまうからだ。検察が「人権の危機」を訴え捜査権を巡って警察と対立していることは誰でも知っている。しかし被疑者についてろくに調べもせず、警察が求めた逮捕状をそのまま請求する検事、検事が請求した逮捕状を何も考えず認める定時帰宅の裁判官こそ、他人の人権を侵害してはいないだろうか。誰もが人権法裁判官の偏向を恐れている。しかし公私に忙しいため記録もまともに読まず、検察からの訴状通り判断を下し権力を行使する優雅な裁判官の方が実際はもっと恐ろしいのかもしれない。」というのである。

日本では、むしろ警察と検察の関係は良好であるが逮捕状を検事ではなく警官が申請できる仕組みや大した証拠がなくても逮捕状が請求できることから憲法の令状主義の精神が没却されていることが明らかである。そして、夜間だと裁判官は帰宅して無人であることから、夜間、緊急に強制採尿令状などを出したい場合は、被疑者を8時間以上待たせ、裁判官の出勤を待って執行するというものである。しかしながら強制採尿令状は最高裁判決によれば真にやむを得ない場合にしか出されないにもかかわらず、なぜこれほどポンポン出るのか、わたしには理解が不能である。ソンウが指摘するように、公私ともにいそがしい優雅な裁判官には記録を読む暇がない、との指摘には傾聴に値するところがある。

私は、刑事訴訟法の専攻して、インターネット上にノートを公開している。多くの刑事訴訟法上の論点についての私の解説が出てくるだろう。しかし、従前は、任意捜査の限界を決めて、強制処分として令状主義のコントロール下に置くことが主眼の議論が多かった。しかしながら、日本各地で裁判官ではなく書記官が逮捕状を捏造したり書記官印漏れが発覚するなど、裁判所がまともな令状審査などしていないのではないか、という危惧感が強くなっている。

令状係は若手裁判官が押し付けられる雑務である。私が修習時代、令状部を見学した際、裁判官は読むべきポイントがあるなどと述べてほとんど記録を読まず1件2~3分で記録を点検していて、知らない間に書記官が押印を押すという体制だった。これが今でも続いているかは知らない。しかしながら、令状主義の実質化はまったなしの課題ではないか。

そのためには、日本にもアメリカのように保釈コートを設けて原則保釈の運用をして、全員の被疑者に保釈請求の有無にかかわらず保釈金を設定するという運用が望ましいように考えている。アメリカのバンクコートでもほとんど弁護士は実態について聞き取らず保釈要件のみを聞き取る作業をするのである。これもまた望ましくない。私の指導教官であった芦澤政治東京高裁部総括判事は、名古屋地裁部総括時代、逮捕状について「罪を認めるに足りる合理的な理由がない」などとして、勾留請求を却下した事案が公開されている。

本来は、勾留質問でもバンクコートでもここまでしなければ人権は守れないだろう。

裁判官も検事も「ワークライフバランス」を守り「3年3回の育児休暇」を取得する権利はある。しかしこのような裁判官や検事よりも、徹夜で勉強し、研究し、悩む裁判官や検事にこそ、誰もが自らの名誉や身体の自由を委ねたいと考えるはずだ、とソンウは指摘する。

たしかに芦澤政治さんが、修習生の私たちに「ジュリー(裁判員)か、ベンチ(裁判官裁判)のいずれが良いか」との質問に、意外とベンチと答える修習生が多かったことを記憶している。

ソンウがいうように、過度なエリート主義では、真の公平さはない。法的紛争は常に究極的にはパーソナルなものであり、温かみのない裁判所の判決など無意味である。

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